注射前のアルコール消毒はただの習慣かも?

インスリン注射治療を行なっている方は、注射前や血糖自己測定前に酒精綿(アルコールが染み込んだ綿)で皮膚を拭いていると思います。

酒精綿とは何とも明治・大正の香りが漂ってきそうな言葉ですけれども、筆者が通っているクリニックの40代後半と思しき医師も酒精綿と言うのです。

さて、月1回の通院時に90~120包程度の酒精綿(正確には、個別包装のイソプロパノール含有不繊布)を支給されています。

1日3回のインスリン注射と1日2回の血糖測定(朝食前と夕食前、昼食前と就寝前を交互に)、さらに食後血糖測定を月に20回程度行なうと、月に約125包必要になります。

律儀に使っていると足りなくなりますから、食後血糖や就寝前血糖を測定する時は使わない場合もあります。米国などでは、消毒せずに服の上からインスリン注射することも、別に変わったことではないようです。

消毒用アルコール

酒精綿は、消毒用エタノールをカット綿に浸したもので、エタノールが酒類の主成分であるところから「酒精」綿と呼ばれます。

筆者が子供のころに見た、ステンレスの板状の蓋を跳ね上げて茶色い瓶の中からピンセットで摘み出した脱脂綿が、酒精綿だったのだと思います。

主に次の2種類が消毒用アルコールに使われ、どちらも親水性の-OH基と疎水性の疎水性基を持ちます。

  • エタノール、示性式:CH3CH2(OH)
  • イソプロパノール(2-プロパノール)、示性式:CH3CH(OH)CH3

アルコール類の殺菌効果は、炭素鎖長が(限度はあるが)長いほど炭素原子および水素原子だけからなる疎水性の炭化水素基の部分が多く占めるので、より強くなります。

そして、アルコール類の疎水性基が親油性であることが殺菌メカニズムに関係します。また、濃度によっても殺菌効果は変化します。

殺菌メカニズム

消毒用アルコールは、細菌などの細胞膜と細胞内の酵素に作用して、殺菌効果が現れます。

低濃度のエタノール環境

エタノール分子が細胞膜の脂質二重層に入り込むと、リン脂質分子の脂肪酸部分の組成が変化して、環境に対応します。

しかし、膜の性質が変化したことから細胞膜の選択的透過バリア機能が失われ、細胞内から必要な物質が漏れ出し、入り込んだエタノール分子が酵素などのタンパク質を変性させます。

その結果、細胞の増殖が阻害(静菌効果)されます。なお、エタノール環境が除去されれば膜の性質は元に戻ります。

中濃度のエタノール環境

作用時間が長ければ(数十分から数十時間)、殺菌効果が認められます。

殺菌効果は、エタノール濃度40[%](w/w)以上あたりから急激に現れ、濃度70[%](w/w)くらいが最大の効果を示し、作用時間は5分以内です。

高濃度のエタノール環境

脂質二重層に入り込んだエタノール分子が細胞膜を不可逆的に破壊し、細胞内環境を維持できなくなった細胞は、短時間で死滅します。

エタノール濃度が70[%](w/w)くらいで殺菌効果が高い理由は、エタノール水溶液中のクラスター構造にあると考えられています。

水溶液中のエタノール分子は、水素結合および疎水結合により重合体(ポリマー)のような構造を形成し、さらに重合体様エタノール分子の親水基が水分子と結びつくことにより水分子をエタノール分子でサンドイッチにしたような構造を形成していることが報告されています。

エタノールと水の質量比が70:30のとき、モル比は47:53です。

  • C2H6Oのモル数:70/{(12×2)+(1×6)+(16.00×1)}=1.5[mol]
  • H2Oのモル数:30/(1×2)+16=1.7[mol]

エタノールと水のモル比が1:1の水溶液のクラスターは、最も大きな疎水性面を持つと考えられます。

アルコール消毒が感染防止に効果が少ない理由

そんな折、注射の前のアルコール消毒は必要か?というウェブページを見つけました。

このウェブサイトの作成者は医師であり、「注射・採血前の酒精綿での消毒」は単なる習慣、風習、言い伝えではないだろうかと疑問を呈し、無駄に酒精綿を消費しているとなれば莫大な金額になるはずだと言っています。

皮膚の消毒をせずに局所麻酔をした2年ほどの全400例で、注射による感染症例は皆無だったそうです。

エタノールやイソプロパノールを使用するアルコール消毒は、比較的人体に対する毒性が少なく(体内に入ったとしても代謝される)、多くの細菌に対して有効ですけれども、その殺菌効果を最も効率良く得るためには、消毒用アルコールの適切な使用条件があります。

濃度

エタノールでは、濃度70[%](w/w)あたりが最も殺菌効果が高くなり、これに相当する消毒用エタノールの製法(pdf)が日本薬局方に定義されています。

酒精綿を作り置きしている場合は、アルコールが気化したことにより低濃度になり、殺菌効果が低下しているかもしれません。

接触方法
  • 浸漬(しんし)法:消毒対象をアルコールプールに浸漬する
  • 清拭(せいしき)法:アルコールを染み込ませたガーゼで消毒対象の表面を拭き取る
  • 撒布(さっぷ)法:消毒対象にアルコールを撒く

などがありますが、アルコールの殺菌メカニズムからして、浸漬法が最も殺菌効果が高いです。

皮膚に浸漬法を適用はできないので、注射前の消毒には清拭法が一般的ですけれども、1回や2回拭いただけでは無菌状態にはなりません。

作用時間

長い方が殺菌効果は高いです。実際は、酒精綿で皮膚の表面を1回や2回拭いて、アルコールが揮発して乾燥する前に注射針を刺しているのではないでしょうか。

以上のことを踏まえると、

  1. 個別包装の酒精綿を取り出して、
  2. すぐに皮膚の表面を拭き、
  3. 乾燥直後に注射をする。

というような可能な限り適切な消毒用アルコールの使用においては、ほぼ無菌に近い状態にまでしかならないと思われます。

たとえ細菌が注射針によって組織内に入ったとしても、通常は免疫系が細菌を排除するか、ある程度の数まで増殖して、その状態が維持されるかのどちらかです。

注射しようとしている部位が血流減少を起こした壊死組織でない限り、感染にまで発展することはないと考えられます。

異常の無い組織へ注射する場合、感染防止目的に酒精綿で皮膚表面を拭くことは、あまり意味のある行為ではないようです。