積丹岬遊歩道の先には女郎子岩とピリカ岬(1984年)

♪ラララァ 積丹 女郎子岩 ― 美国ユースホステルで何度も歌った「シララの唄」。メロディーは覚えているのだが、歌詞はこれしか出てこない。

積丹岬の島武意から遊歩道を東へ歩いて行くと、海原に女性が立っているように見える巨岩「女郎子岩」が現れる。1984年8月25日撮影。女郎子岩は積丹岬自然遊歩道の見どころのひとつ。何百万年もの波浪によって作り出された奇岩。

積丹岬は、積丹半島の最北端にあって高さ100[m]ほどの断崖が続く。

道路地図を見てもそのような事はわからないわけで、半島の先端、岬の突端に何故か行きたくなる不思議な習性というか感覚に導かれて、国道229号の東海岸側を走った。

積丹半島の東西を神威岬で分けた時、1984年当時、西海岸側の川白から沼前まで数キロが不通区間だったからだ。

朝、雨の函館を出発し、走ってつまらない国道5号、走って驚かされたセタカムイラインを経由して、その日(1984年8月23日)は美国ユースホステルに泊まることにした。

時間はあるが金はない学生にとって「簡素な旅行」とユースホステルはマッチしていたし、ガイドブックに載っていない情報を得られることも大きかった。

積丹岬自然遊歩道

積丹岬の東海岸側にある積丹岬自然遊歩道は、入舸の島武意海岸入口から断崖の上を通って幌武意の道道913号に出る約4.7[km]。

積丹岬自然遊歩道のルート図積丹岬自然遊歩道の島武意側ルート図積丹岬自然遊歩道の女郎子岩側ルート図出典:国土地理院「電子国土基本図」(標準地図に1974年~1978年撮影空中写真を重ねた)
[2017-02-25追記]

1984年当時は島武意トンネルまで行く道は狭く、トンネル手前の駐車場も無かったような気がする。(空中写真を見ると有りますね。)トンネルを抜けると、眼下には積丹ブルーの島武意海岸が見える。

トンネル手前から出岬灯台を経由して東へ約2[km]歩くと、女郎子岩を望む場所(たぶん現在の展望デッキが設置されている所)に着く。

女郎子岩

ピリカ岬から女郎子岩を見下ろす。1984年8月25日、現在の展望デッキから女郎子岩を見て右手にあるピリカ岬の上から撮影。女郎子岩の高さは40[m]はあると思われる。奥の断崖の高さは約130[m]。

女郎子岩伝説 ― 義経と恋慕う仲になったアイヌの娘「シララ姫」は、追討を逃れるため密かに船出した義経主従の後を追ったが叶わず、絶望して海中に身を投げて岩となった ― という。

美国ユースホステルの岬めぐりツアーでは、女郎子岩に向かって投げキッスを3回するのがお約束だった。恋の願いが叶う……ようなことだったと思うけれど、シララ姫の願いは叶わなかったのだよ。

ピリカ岬

女郎子岩展望デッキからもう少し歩を進めると、ピリカ岬がある。ここにある三角点の標高値は138.3[m]。

女郎子岩側からピリカ岬を見た3D図出典:国土地理院「電子国土基本図」(標準地図に1974年~1978年撮影空中写真を重ねて3D化)
[2017-02-25追記]

ピリカ岬の画像を検索するとわかるが、火曜サスペンス劇場の中で追い詰められた犯人が3秒で自白してしまいそうな断崖。

ピリカ岬の先端で記念写真。1984年8月25日、ピリカ岬にて。美国ユースホステルに連泊して岬めぐりをするホステラーは、このような旗を持たされて♪岬めぐりのバスに乗った。ビーチサンダルでも歩けるもので、2日後にこの格好でオコタンペ湖溶岩を登って湖岸に降りた。

遊歩道からピリカ岬三角点までは100[m]ほど離れていて、道を外れて入っていった(当時、遊歩道に柵などは無かった)のだろうと思うが記憶にない。

徒歩旅行とユースホステル

ユースホステルを利用した期間は4年間、1984年はその最後の年になった。

ユースホステルにおける教育運動に関する評価不在の複合原因と未来への可能性の提言(pdf, 国立オリンピック記念青少年総合センター研究紀要,第7号,2007年)によると、85年までの30年間がユースホステルの「全盛期」、それ以降は「ポスト全盛期」と言われるようだが実質的な衰退期。

カニ族(長期低予算旅行をする若者のこと)が流行した70年代前半が「全盛期」のピークで、80年代前半にはユースホステル会員数およびのべ宿泊数は半減していた。

それにもかかわらず、80年代前半が「全盛期」のうちに入っていた理由は、個々のユースホステルの特徴が最も花開いた時期だからだという。

80年代前半にユースホステルを利用した者としては、良くも悪くも夕食後のミーティングが特徴的だったと記憶する。

人見知りが過ぎる性格だったのであまり好きではなかったが、周辺の「歩く旅」のコースガイドやホステラー同士の「あそこが良かった」「ここは行った方が良い」といった会話を聞くだけでも明日の旅の情報が得られた。

そんな自分でも見知らぬ人たちとコースを歩いたり、レンタカーを借りてドライブしたり、名前と住所を交換して後日写真を送り合ったり、ツーリングの帰路に待ち合わせして遊んだりなどの経験ができた、のどかな時代だった。

各ユースホステルは周辺の「歩く旅」のノウハウを持っていて、礼文島の愛とロマンの8時間コースは有名だった。そのようなコースの集大成は、全ページ手書きの徒歩マップ「とらべるまんの北海道」に見て取れる。

ツーリング中にバイクを降りて歩きたくなるのは、この時期の影響だったのかもしれない。実は今でもほぼ毎日歩いている。糖尿病なので。